それでもできない人がいます。できない自分を責めても良い方向に向くことはありませんので、落ち着いて考えてみましょう。
できない人には、ある共通したパターンがあります。
判断を他者に任せているのです。
任せる方が楽だし、安心だからです。
そんなバカなと思うでしょう。
しかし、占いが気になるのはどうして?
他者に相談するのはどうして?
どうして他人の目が気になる?
回りが認めてくれたら安心するのはどうして?
無意識に他人の価値観を取り込んで暮らしていくことを「適正」だと思い込んでいるのです。目に見える「適正」な現象を気にしすぎて、自身の在り方の適正を崩しているのです。
無意識に他人の価値観を取り込んで暮らしていくことを「適正」だと思い込んでいるのです。目に見える「適正」な現象を気にしすぎて、自身の在り方の適正を崩しているのです。
冒頭にお話したように、私たちは目に見えることに、見えない価値観を勝手に付け足して判断する習性があります。
言うなれば常に「取り越し苦労」をしているのです。取り越し苦労は「他人が気になる」裏返しです。それができるから「社会性」を保つことが出来ているとも言えます。
しかし、それが<適正>を失うと自分を見失ってしまいます。
私たちは誰でも5人の自分を持っています。
厳格な父親の心、保護的な母の心、社会性のある大人の心、従順な子どもの心、無邪気な子どもの心の5つの自分です。
オギャ~と生まれて成人する過程で5人の自分を身につけることを要求され、学び、身につけ、育てていきます。この内、生まれながらに持っている自分は無邪気な子どもだけです。
これこそが本当の自分ですが、もっとも抑圧される機会に溢れています。
抑圧していると「いい子だね」「いい子にしてたね」と褒められます。
自分を放棄することが褒められるという<異常事態>を経験すればするほど内心では混乱が起こりますが、生きるために深く考えません。また考える能力も人生初期にあるはずもありません。
抑圧していると「いい子だね」「いい子にしてたね」と褒められます。
自分を放棄することが褒められるという<異常事態>を経験すればするほど内心では混乱が起こりますが、生きるために深く考えません。また考える能力も人生初期にあるはずもありません。
だからといって抑圧した<無邪気な子ども>が消えてなくなるわけではありません。このコントロールがうまくできていないために、<適正>を失ってしまうのです。この体験を親も、その親も、またその親も続けてきたのです。だから疑いも持たない。
しかしテーマパークのように単純ではない社会で暮らして行くのに、<無邪気なこども>ばかりでは楽しいはずもありません。人間が創り出した社会は、<無邪気なこども>には、あまりにも壮大で多彩だからです。<適正>が必要なのです。
<適正>のバロメーターが<自立>です。自立とは経済的な独立のみを意味するのではなく、ここに示す<見える2つの階層>と<見えない4つの階層>に立てることを意味します。
・環境
・行動
・スキル(能力)
・価値観(信念)
・アイデンティティ(自己認識)
・スピリチュアル(共同体)
つまり<5つの自分>の集合体です。
自立した人は、環境や行動のせいにしません。むしろそれを越えて行くことで、スキルを磨き、価値観(信念)を強めて、アイデンティティを確立していきます。そのプロセスを通じて<共同体>との連携を深め、<共同体>に貢献し、<共同体>をより価値あるものに高めます。
その原動力が<無邪気なこども>の<やってしまう>ことなのです。<やってしまった>こどもは、その後に来る事態に驚き、生き延びるために教わったことを思い出し、不足を感じると、学びながら、全知全能<5つの自分>を使って悪戦苦闘します。そのプロセスが本当の自分を顕在意識に引き上げてきます。
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