2010年4月24日土曜日

逆算する意味と効果

社会と学校の違いは、社会においては結果を出すことにあり、学校では学ぶことにあります。違いは明白です。つまり社会においては結果がすべてであって、努力の多寡(たか)は問題ではないのです。しかし結果は行動の結果でしかありません。努力の多寡も行動ですが、多寡だけでなく「行動の質」が大切なのです。

確かにほとんどの組織において評価する場合、外部的な要因や社内での要因の違いで不公平が生じる場合があります。そこで数字で計れるはずの「行動の質」に見落としがないように、数字的な成果のみでなく、「行動の質」を主観的な評価で加え不公平を緩和することと”期待値”を加えることをしています。しかし行き過ぎると結果主義が中心になり、成果プロセス主義が陰を潜めることになります。

結果主義は実績の多寡で判断するやり方です。俗に言う結果オーライを本分としています。成果プロセス主義はできたか、できなかったで判断するやり方です。結果主義が危険であることはすでに広く認知されています。結果主義の最大の欠点は自分に仕事を合わせる点にあります。最も恐ろしいことは、こんなに努力しているではないかと精神主義を土台にした誤った自己肯定に走る点です。

いかなる努力について否定することはありませんが、社会と学校の違いが出発点にないとつじつまの合わないことが生じてきて、どこで間違ったのか分からなくなり混乱の原因になります。

成果主義もプロセスを度外視して結果だけを云々すると、精神的な結果主義の衣装直しになります。数字だけこだわったノルマ主義になります。精神論ではなく現実的なプロセスの積み重ねが大事なのは言うまでもありません。成果主義といわず成果プロセス主義と言っているのは、プロセスへの注目なしに、成果主義はありえないからです。

結果主義をよしとする風土には、ノルマ主義をよしとしない考えがあります。つまり結果に対する反応の仕方を気にしているだけで、もっとも重要な「プロセス」への関心が抜け落ちているのです。結局、結果主義もノルマ主義の日常的な反応に大差ないことをしているわけで、目標達成は、逆算なしにあり得ないという考えとは離反しています。

目標を達成するには「結果」から逆算した計画つまりプロセスを組み立てることが欠かせません。成果プロセス主義にはこれがあります。成果主義と看板を書き換えたノルマ主義にはこれがありません。結果主義も同じです。プロセスへの注目がないのは「さあ、がんばってやっていこう」という精神主義だからです。

「八甲田山」という映画には、製作者の意図とは関係なく期せずして、この違いが明白に描かれています。無事に全員が帰還したチームには、その行程のすべてが逆算で行われていることが描かれています。全滅した側には、それがあるようでありません。「あるようでない」という点に特別な注目が必要です。映画もそうですが、私たちの現実において注目が必要なのです。

どのようなやり方を採っても、努力があり、それなりに努力の結果が出ているからです。こんなに頑張ってやって、結果が出ているのだから、この上なにが問題なのかと思うのは心情としては理解できます。しかしこれこそが落とし穴なのです。

落とし穴を避ける手段が他者(社)の実績です。なぜ我々とかけ離れた実績が出ているのか、といった素朴な疑問です。本当に努力の度合いが高いほど、努力だけで割り切れない問題があると感じることができます。努力でカバーできない「やり方」つまりプロセスの違いこそ核心なのです。

逆算の方法をするには、結果を知っている必要があります。そのまま考えると「すでにやり方を知っている」ということです。以前、やったことがあるが、こういう問題が起こって、こういう対策をして乗り越えたというような成功例、失敗例があると、うまくいく方法を見つけ出しやすくなります。その点で「経験」が効果を発揮します。


ところが現実には経験者なのに逆算できない人がいる一方、未経験者なのに逆算できる人がいます。その最大の原因は「逆算の必要性」を知っていて、実行していることです。未経験なら聴けばいいし、仮説を使えば、経験不足を補うこともできます。さらに逆算を有効にするのが因果関係を計算することです。

プロセスは、物事の道理(原理原則、ルール)、因果関係を計算しつくして逆算することで作れます。計算不足はマネジメントで補えます。俗に言う「危機管理」はそれなしにできません。事故が多い、トラブルが多い店とは、日常的に逆算していない店です。

・体験を生かしていない、
・想像力が欠如していて予測できない
・道理・因果関係を考えていない(マネジメントに関心が弱い)

なぜ、そんなことになるのでしょうか?

私たちが最初の一歩だった学校教育を思い出してみましょう。成績の良い子と良くない子はなぜ生まれるのでしょう。「勉強が楽しくなかったから」と言います。その原因は「先生が好きでなかったから」が多いようです。離職の理由とよく似ています。「上司がいやだった」「仕事が楽しくない」しかし本当のところ何が原因だと思いますか?

◎本音の退職理由 ランキング

1 位  上司との人間関係 66人
2 位  給与が不満足 44人
3 位  仕事に変化がない、おもしろくない 40人
4 位  会社の経営方針・経営状況の変化 38人
5 位  キャリアアップしたい 38人
6 位  労働時間や環境に不満 32人
7 位  勤務地までの距離・環境に不満 18人
8 位  社長がワンマン 26人
9 位  同僚・先輩・後輩との人間関係 25人
10位  社風が合わない 23人
11位  雇用形態に不満


主体的に生きる人もいますが、「上司との人間関係」を始め、ほとんどが主体性の弱さなのです。

積極的に参画してくる部下を上司は嫌うでしょうか?先生はどうでしょうか?人は誰でも認めてほしい生き物です。生きている限り、肯定を求め続けます。学校における成績と違いと教師への態度の原因は「予習」にあるのです。

本当の意味で学校は教わる場ではないのです。確認する場なのです。小学校1年生の始まりは、全く知らないことを教えるところから始まっていません。つまり子供はすでに知っていることを”教わる”のです。受け身の生徒からすると”教わる”になりますが、積極的な生徒からすると学習した結果の確認作業です。このスタンスは学校教育の課程がすべて終わるまで続きます。

この認識を間違えてしまうと、知らないことがどんどん出てくるようになり、勉強がいやになり、楽しくなくなり、成績が低迷します。「知っていることを確認する」のが学校です。ところが知っていることを”教わる”ので安心して自習しなくなる子が出てきます。学校に行ってもついてこられなくなります。頭が悪いわけでもなく何でもないのですが、「努力」の仕方が分からなくなってしまいます。努力の仕方が分からないから努力はつらいものと認識してしまうのです。こんなふうにしてしまうのは大人の責任なのです。

目標は逆算しないと達成できないというのは、これと同じなのです。答えをすでに知っていて逆算するのが本来なのです。知らない部分を聴く、仮説を立てて不足を補うのが行動するための手段なのです。この部分が社会で求められている部分なのです。なぜなら「結果を出さないといけない」からです。学校ではないので、努力の多寡(たか)ではないのです。学校は結果主義なのです。入試だけが成果主意です。だから入試は意識の上で特別な勉強の対象になっています。だから知らない部分を聴く、仮説を立てて不足を補う努力をします。

しかし組織は失敗ができないので、理想論ではなく、現実的に対応するために、管理者(プロフェッショナル)と一般従業員(ワーカー)に役割を分担します。管理者(プロフェッショナル)が予習していて教えることができる人です。一般従業員(ワーカー)は予習のしてない人です。実体験を通して「予習」を重ねているのが一般従業員なのです。予習の期間は勝手な行動をさせないように管理者が監督しています。管理者は逆算でプロセスを間違わないように行動できる人です。

つまり結果主義とは、全員が予習中の状態なのです。それが分かっている場合において結果主義はありえます。管理者がまだ管理者になりきっていない場合においてのみ採用するのが結果主義なのです。逆算できるようになるトレーニング期間です。

間違って結果主義を採る限り、逆算の必要は生まれません。体験だけでは補えない逆算の必要があるから人は”学習”します。調べてまわり、聴いてまわり、仮説を立てて試します。それが教育なのです。教育があるから成長します。教育とは学ぶ者に主体性がないとできないのです。結果主義も主体性がないと逆算できる力への発展がありません。選択と行動は本人にしかできないものだからです。

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