2011年3月5日土曜日

責任を果たしたい人、逃げたい人

 「責任」とのつきあい方は、人それぞれです。なにより責任の解釈が人によって違います。責任あるポスト、仕事につくと「おめでとう」と声をかけられ、お祝いすることもあります。

ところが「責任をとる」局面に立つと逃げ出したくなる場合があります。日本には、昔から「切腹」という責任の取り方があって、ネガティブな印象があるのかも知れません。罰を受けることと責任をとることは同じなのでしょうか。

少し見方を変えると、人には責任をとる「権利」があります。能動的な解釈に立てば責任者になった喜びに通じます。しかし責任を放棄する権利があるかというと、そうもいきません。その後始末を誰かが引き受けないとならないからです。

 「責任と失敗」とどう向き合えばいいのでしょうか?
ポジティブに言えば「責任は果たしたい」、ネガティブに言うと「失敗は避けたい」
どちらも同じ意味だけど、心のありようはかなり違います。さらに、ありようをどれだけ変えても、ペナルティ、罰則が不安をもたらします。謝って済むペナルティもあれば、社会の表舞台から退場することもあります。

結局、責任を引き受けるとは、心の強さを鍛えることにつきると言えます。心はどうすれば鍛えることができるのでしょうか?身体を鍛えるように少し無理めを反復すれば可能でしょうか。

 努力しても身体能力には限界がありますが、心は身体以上に鍛えることができます。具体的にいうと感情をコントロールする力を強化することです。心を鍛える目的は我慢する力を高めることではありません。行動する力をアゲるためです。

行動が成果を果たすのは、現状を変えるからです。いくら考えても考えるだけでは現状は変わりません。そこで重要なことがあります。変えられることと、変えられないことがある現実を受容しておくことです。

もし、なんでも努力すれば変えられると思っていたら、自身がすり切れるまで努力する危険があります。

頑張れば変えられると思いがちですが、必ずしもそうはいかない。そうはいかないと決めつけたら頑張ることをやめてしまう人もいますが、それも間違い。要するに感情の扱い方次第なのです。変えようとするときに、感情は邪魔になるだけです。

変える、あるいは影響を与えるには自分の行動を変えるしかありません。結果を変えるには行動を変えるしかないのです。感情を高めた気合だけでは、できないことの方が断然多いのです。

頑張って疲労するのは判断を感情に預けてしまうからです。感情的な行動に走って台無しにしてしまう危険は感情世界に浸かってしまうからです。感情に浸からないために「限界」を知ることが重要なのです。限界を知ることは、あきらるのではなく、覚悟することです。

 分かっていないことが多いから、あるいは考えても、考えても、それでも分からないことだらけだから、論理的に考える大切さが浮かんできます。
 分かっていることを知って土台にして、ここから先は分らないから、やってみるしかないと手を打つのです。

 これが「なにがなんだか分らないけれど、やるしかない」という状態になったとき、どうしていいのか分からなくなり、やる気のあるポーズだけを作って責任から逃げようとするのです。どこまで知っていて、どこまでできるのか、それが分からないから不安になります。

 不安になるから覚悟が出来ないスパイラルに陥り、モチベーションはどんどん下がる一方で、逃げ出したくなるのです。

しかし、ここまでは分る、ここまでは出来ると認識していくと、分らない部分がはっきりします。覚悟するから、打つ手を考えることができるます。頑張るだけでは届かない「打つ手」を考えるキッカケになります。なぜするのか、どうすればできるのかを合理的に重ねていくことができるのです。

これが突破口になります。一歩、一歩、ゆっくりとPDCAを繰り返せばいいのです。それでいいのだと分ったとき、モチベーションは上がってきます。そして好ましい成果を多少でも感じられたとき、責任を引き受けたい欲求が高まります


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